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光のカナダ留学blog

30歳で会社を退職。現在カナダ留学中です。

「演じている自分」と「本当の自分」

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前にも似たような事を書いたことがありますが、私はいつも一人でいることが多いです。学生の頃も、休み時間などは友達と話すよりも、本を読んだり、机に突っ伏して寝たフリをしたり、ぼーっとクラスを外から眺めているタイプの学生でした。

決して人が嫌いなわけではありませんが、人と和気藹々に笑って過ごすという行為が苦手、というより何か演技をしている様に感じてしまい、昔から人付き合いがすごく苦手でした。

口から出てくる全ての言葉が自分の本音でなくて、他の人に歩調を併せた偽物の言葉。一人で部屋に居る時に思っている事はただひた隠しにし、良く思われよう、嫌われないようにしようと、都合の良い自分を演じているような感覚です。

 

今書いているこのブログも、やはりどこか「本当の自分」とは違う別の誰かが書いているような違和感をずっと持ち続けています。書いてる文章が主観的に感じられず、どこか別の場所に本当の自分は存在していて、書きたい内容の書かれたメモを誰か他の人に渡して代わりに書かせているような、そんな感じです。自分の言葉ではなく、自分を騙った誰か別の人の言葉。

本当の自分がもしも書いているなら、多分もっと陰気くさい文章で、ネガティブな内容ばかりになってしまうかもしれません。

 

ただ一方で、文章なんてそんなものなのかな、とも思ったりもします。そもそも文章は「ですます」調か、「である」調かでその人に抱く印象が大きく変わります。つい最近、今更ですが羽生善治さんの「決断力」という著書を読みました。私はあまり将棋に詳しくないので、羽生さんにはもっとフランクな印象を持っていたんですが、「である」調で書かれた、どこか客観的に書かれた本著を読んだ感想は、何か別の人が書いているような変な錯覚を受けました。 

決断力 (角川oneテーマ21)

決断力 (角川oneテーマ21)

 

もちろん私が勝手に羽生さんのイメージを事前に作り上げてしまっていただけなので、もしかしたら文章を書いた羽生さんが本当の羽生さんなのかもしれません。

その人が本当はどんな人なのかは、その人本人にしか分かりません。私たちはその人の身なりや手振り、立振る舞い、喋っている言葉、文章などから総合的に判断して、その人がどういった人なのかを客観的に知るだけです。

 

そもそも「本当の自分」とは何なのかというところです。「演じている自分」が、他人から認められてそういう人だと広く認知されているならば、それはもはや偽りの自分ではなくて、本当の自分なのかもしれません。

 

そんな事を考えている中で、偶然見つけたある記事にとても励みになる事が書かれていたので、抜粋させて頂きたいと思います。(鳥井さま 勝手に載せてしまって申し訳ありません)

ただし、常に自分は何をもって覚えられたいのか、ということは問い続ける必要があると思います。(※「何をもって評価されたいか」ではない。)

つまり「なりたい自分に書かせろ!」というのが僕の答えです。

単に、一時の憂さ晴らしや、自分の溜飲を下げる為に書かないこと。本当になりたい自分に一歩でも近づくための発言になっているかどうか、それを常に意識するべきなのだと思います。

 

「なりたい自分に書かせろ」

とても素敵な言い回しだと思います。

自分がどうありたいか、どうなりたいか、全てはなりたい自分につながるかどうかを意識する事が重要であるということ。逆説的に捉えると、意識するしないに関わらず、自分の中になりたい自分が居て、その自分になりたいという心の現れが自分を演じる事につながる、これもまた真なのかもしれません。

 

ネット上では逆の性別を演じている方々(いわゆるネカマやネナベと呼ばれる方達)が居ます。彼らも、現実での自己と自分の感覚にギャップを感じ、なりたい自分(逆の性別)に憧れを抱いていて、なりたい自分を演じている。

そう考えるとすごく腑に落ちて、彼らの思考がとても身近なものとなります。

 

結局のところ、「演じている自分」と「本当の自分」というのは、一見すると表裏一体であるようで、実はお互いが延長線上に存在しているものなのかもしれません。

photo by Travesty Photography